Prologue



 もしも、あなたが困っていて、助けを必要としているのなら、窓や玄関、門など目立つところに銀色のリボンを結んでおくといい。

 優しい魔法使いが助けてくれるかもしれないから。


               ★


 アパートの窓から見える立派な葉桜が久しぶりの太陽にキラキラと輝いていて、あまりの美しさに俺はちょっとだけ弾んだ気持ちになり、そして切なくなった。

 来週になれば長かった梅雨も明けるのかな。

 今日のように晴れ晴れとした青空が広がる日々が増えるのだろうか。

 御守り代わりのものを手にして、桜の立派な枝をぼんやりと見つめる。

 ピンポーン。

 突然、備え付けの古い玄関チャイムが鳴って、俺の体がビクッと驚きに跳ねて御守りが落ちる。

 反射的にそこいらに散らかっている洗濯類と一緒に、開けっ放しの押入れに放り込んだ。

 誰だろう?

 宅配業者が来る予定もないし、ちゃんと家賃を払っているから大家が来るとも思えない。

 セールスか? その可能性は高い。新聞勧誘だろうか。

 居留守を使おう。

 そう決心して岩のように動きを止め、気配を消す努力をする。

 ピンポーン。

 ピンポーン。

 ピンポーン。

「こんにちは、保科さーん」

 自分が部屋にいることを知っているかのように、扉越しに声をかけてきた。表札、外しておけばよかったな。

 ドア越しに聞こえてきたのは春風のように柔らかい女性の声。しかもイントネーションがちょっとおかしい。

 気配を消すために固めていた俺の体がゆっくりと解れていく。

 聞いたことのない声に好奇心が頭をもたげる。

 どうしようかと五秒ほど迷ったが湧き上がる好奇心に負け、音を立てないよう注意して抜き足差し足、そっと玄関に忍び寄る。

 ドアスコープをのぞいて、喉の奥で悲鳴を上げた。

 だって、ELLEやVOGUEの表紙から抜け出してきたような、完璧なスタイルの美人外国人女性がこちらに向かって微笑んでいたのだ。

 白い肌に柔らかなウェーブを描く長い金髪。若葉のように輝く緑色の瞳がこちらを見つめている。

 彼女を目にした瞬間、ドアノブに手をかけてしまったのは、健全な二十歳の男の反応として許して欲しい。

「こんにちは、保科さんですね」

 発音が少し怪しいが、にこやかに話しかけてくるELLE美女。

 埃がうっすらと被ったスコープ越しではなく、直に見る彼女はさらに美しかった。

 シンプルな白いシャツにタイトなジーンズ。風に溶けていきそうなシフォンのストールを首にかけた気取らない、でも上品で気品溢れるファッション。

 背が高く、手足が長いほっそりとした体なのに、胸とお尻が突き出ていてこれでもかと女性の魅力を醸し出していた。男なら誰でも目を奪われてしまう曲線美。

「今日、隣の二十二号室に引っ越してきました」

「……と、隣に?」

 ちなみにうちは二十一号室。二階の一番端の部屋だ。

 白金や麻布の高級マンションに住んでいそうな雰囲気の彼女が、自分と同じ安普請のアパートに住んで、しかも隣なんて現実とは思えなかった。

 夢?

 これ、夢だよな絶対。

 隣に美女が引っ越してくるなんて、漫画か小説の世界だよな。

「パトリシア・ワイズ・北城と申します」

 北城……、ってことは日本人の夫がいるってこと?

 落胆が顔に出ないよう、表情筋に力を込めた。

「ご、ご丁寧にどうも。保科……優一です」

 彼女の体から香水……とはなんか違ういいにおいが漂ってくる。

 甘い花の香りとも瑞々しい葉の香りとも違う。なんだろう。

 不思議な香りにお酒でも飲んだようにポーッとなって、ふわふわとした気持ちで彼女に見とれてしまう。

「そして、娘のシャルロットです」

 彼女の背後から、警戒するように小学生ぐらいの女の子が姿を現した。

「……へ?」

 俺はようやく我に返る。

 こ、こ、こ、子持ち!!

 自分よりは年上だとは思っていた。二十代後半ぐらいかなと。

 既婚者なのはまだしも、まさか子持ちとは。しかも赤ん坊や幼児ではなく、小学生。三十歳は軽く超えているのか?

「シャルロット、ご挨拶を」

 母親に促されて、女の子はペコリと頭を下げる。

「シャルロットです」

 顔を上げた女の子に再び息を呑む。

 お人形さんみたいな、って形容詞がまさしくぴったりの美少女。美人の母親のDNAを見事に受け継いでいる。

 日本人の父親から受け継いだのか黒い髪に黒い瞳。だけど肌は白くて、唇は珊瑚色。顔立ちは完全に外国人で、目は母親のように大きく、まつげが長く、鼻が高い。リアル白雪姫だ。

「今年十歳になります」

 彼女は誇らしげにシャルロットの頭を撫でる。

 腰まで伸ばした黒い髪は、母親のように緩やかなカーブを描いている。

 黒い瞳だと思っていたが、俺を見上げた彼女の目は、陽に透けるとうっすらと緑色が浮かび上がる。なんて神秘的な……。

「保科さんは大学生さんかしら?」

「え……は、はい、一応」

「まあ、楽しい時期ね。もう夏休み?」

「あ、はい。いや、夏休みはまだで、正確には試験休みですけど」

「お口に合うといいのですが、ほら、シャルロット」

 母親に言われて、シャルロットが後ろ手に持っていた箱を俺に差し出した。

 それは少女の両手に収まる一辺十センチの正方形の白い箱。細い銀のリボンがかけてあるだけのシンプルさが、より高級感を醸し出す。

「ドラジェというお菓子なのですけれど、もしよろしかったら。甘い物はお好きですか?」

「はいっ。大好きです」

 実はあまり菓子は食べないが、美しい女性に微笑みながら問われて、反射的に肯定してしまった。

「よかった」

 パトリシア夫人の微笑みに、再びボーっと見とれてしまう。

「シャルロット、優しそうなお兄さんがお隣さんでよかったわね」

 パトリシア夫人は我が子の頭を愛おしそうに撫でる。だが、娘の方は緊張しているのか頬を緩めることなく、まるで検分するかのようにじっと俺を見つめていた。

「どうか娘をよろしくお願いします」

「あ、はい。なにかあったらいつでも声をかけてください」

「そう言っていただけて助かります。ぜひ、娘の力になってください」

「もちろんです」


 美しい母娘が去った後、俺はそっと部屋に戻ってシャルロットから渡された白い包みをローテーブルに置いて、しばし眺めていた。

 さっきまでの憂鬱さが吹き飛んでしまった。

 美人ってすごい。俺って単純。少々自己嫌悪。

「ドラジェって言ってたっけ。ソバやタオルじゃなくて、小洒落たお菓子で引っ越しの挨拶なんて外国人ならではの発想だな」

 確か、アーモンドに色とりどりの砂糖をコーティングした菓子だよな。よく結婚式の引き出物なんかに使われるという話を聞いたことがある。

 甘いものは嫌いじゃない。甘党ってわけじゃないけど、チョコレートとかアイスとか普通に好きだ。

 銀のリボンに指をかければ、溶けるようにするりと解けた。

 両手でリボンの端を持ちピンと引っ張ると、文字が織り込まれているのに気づいた。両手を持ち上げて、窓から差し込む陽にかざしてみる。

「アルファベットみたいだけど英語……じゃないな。ドイツ語でもフランス語、イタリア語、ロシア語でもなさそうだな」

 店の名前でもなさそうだ。自分でラッピングしたのだろうか?

 ELLE美人、パトリシアさんの故郷の言葉かな。

 だとしたらチェコとかリトアニアとかフィンランドとか、俺にはなじみのない国の人かな。

 箱の中には白、ピンク、青、黄、緑と色とりどりのドラジェが詰まっていた。

 白いドラジェをつまんで口の中に放り込む。

 つるんとした粒をガリッと噛み砕けば、砂糖コーティングが割れて、アーモンドの香ばしさが口いっぱいに広がる。

 砂糖の甘みとアーモンドの風味が口の中で混ざり合い、芳醇な美味しさが広がっていく。

 そういえば今日初めて口にした食べ物だった。

「おいしいなぁ」

 ドラジェを噛みしめていると、糖分が脳に回ったせいか一つの疑問が浮かび上がり、俺はローテーブルを離れて薄い壁に耳をつけて二人の生活音を探った。

 変態チックなことをしている自覚は十分にある。

 だけど、おかしいよな。

 引っ越しならそこそこ騒がしくなるはずなのに、騒音らしきものはなにもなかった。だから彼女たちが玄関先に現れるまで、引っ越しがあったことに気がつかなかった。

 それにここは1Kの独身用アパート。

 契約書にも二名以上の住居を禁じると書かれてある。ついでにペットも。

 子どもは例外なのかな。

 パトリシア夫人はシングルマザーか夫と別居中?

 今時シングルマザーなんて別に珍しくない。が、違和感はそこじゃない。

 このアパートは築三十年。防音設備なんてない安普請。

 壁につけた耳は何の音も拾わない。

 静かだ。

 静かすぎる。

 小学生のいる家庭はもっと賑やかなんじゃないか。

 それに引っ越したばかりなら、掃除や荷解きや整理など相当の生活音がするはずだ。


 あの母娘、本当に隣に住んでいるのか?


               ★


 隣の二十二号室は今日も静かだ。

 昨日もらったドラジェの箱はローテーブルに置いたまま。

 母娘が本当に住んでいるのか、住んでいるふりをしているのかはわからない。

 だが、俺は静観を決めた。

 少なくとも今のところ害はない。静かなら、それに越したことはない。

 昨日はうっかり困ったことがあればいつでも声をかけて的な雰囲気を出してしまったが、ハイの日ならともかく、ローの日は無理だ。世界から切り離されたくなるのだ。だから、相手が誰であろうと完全拒絶。

 って言っても、ELLE美人と人形のような美少女を前に拒絶的な態度を取れるかは疑問だ。

 現に昨日は三対七でローの気分だったのに。ドラジェを口にしている頃にはハイに逆転していた。

 ……男って、俺って。

 コーヒーを片手に、まだ半分以上残っているドラジェを見つめながら思う。

 朝食代わりにピンク色のドラジェを口に入れる。

 甘いドラジェとコーヒーの苦みがよく合う。

 アーモンドの歯ごたえを心地よく感じていると、玄関のチャイムが鳴った。

 なんだろう?

 無視してもいいのだが、甘くて香ばしいドラジェのせいで気分が軽くなっていた俺は、ドアスコープも確認せず無防備にドアを開けてしまった。

 目の前、いや目の前からやや三十度下方に緩くカールした黒髪と陽に透けるとほんのりと緑色になる瞳の美少女、シャルロットが立っていた。

 白いワンピースの裾からレギンスを履いた細い脚がスラリと伸びている。

「おはようございます。今日はとてもいいお天気ですね」

 はっきりとした明るい声で挨拶をしてきた。

 母親よりも発音のきれいな日本語。生まれ、育ちは日本だろうか。

 おはようと言うには、ちょっと遅すぎる。今は十時四十分だ。

「……お、おはよう」

 彼女は俺の姿をじっくりと眺めて、呆れた顔をする。

「寝起きですか? もうすぐ十一時になるというのに」

 図星。

 寝間着代わりのよれたTシャツに染みのついたコットンパンツ。顔さえ洗わず、鏡を見ていないが多少の寝癖もついているだろう。

 これがパトリシア夫人のほうだったら、もっとダメージは大きかった。

 いや、子持ちの人妻とどうこうなろうなどとは思っていないけれど。

 でも、品行方正な好青年としての印象は崩したくなかった。少なくとも昨日の俺は、顔も洗って髪も整え、服も着替えていたし。

「お休みの日だからといって、いつまでも寝ているのは良くないです。ちゃんと起きてしっかりと朝食をとらなくては」

 ……キミは俺の母親か?

 小学生に生活の乱れを注意されてしまった。

 シャルロットはふぅ、と可愛らしくため息をつく。

「そんなことだとは思っていました。まあ、いいです。シャルもいろいろ忙しくて朝食がまだなのです。ブランチでもご馳走してください」

「………………へ?」

 ご馳走って?

 言葉を反芻している間に、シャルロットは俺を押しのけるように玄関に足を踏み入れて靴を脱ぎ出す。

「え、え?」

 戸惑っているうちにシャルロットは自分の家のように部屋に入ってきて、俺が愛用しているクッションを引き寄せてローテーブル前に腰を下ろす。

「お腹が空きました。早く用意してください」

「え、え、え? どういうこと?」

 っていうか、なんで俺が食事の用意をしなければならないわけ?

 そりゃ昨日はつい口が滑って、なにかあったらいつでも声をかけてとか言っちゃったけど。

 だからと言って、いきなり家に上がり込んで食事をねだるか? 昨日会ったばかりだぞ。しかも、会ったのはほんの数分。

 あまりにも図々しくない?

 もしかしてお隣さんは、とんでもない非常識なモンスター親子!?

 だったら極力関わりたくない。どんなに美人親子だとしても、関わりたくない。

 どうやってシャルロットを追い出そうかと思案していた俺の耳に、彼女のため息まじりの声が聞こえた。

「早くしてくださいな。もう本当にお腹ペコペコなの。マミーは昨日の夜から外出していて、シャルはずっとなにも食べていないの。お金は置いておいてくれたから、コンビニエンスストアに行けばなんとかなると思っているけれど。昨日来たばかりの街をひとりで歩くのは少々不安でしたので」

「え、お母さん、ずっといないの?」

 まだ十歳の子どもをひとりで一晩中留守番させておいて、しかも食事を与えていないって。これって、まさかネ……、ネグレクトってやつじゃないのか!

 いくら美人でも子どもを虐待するなんて許せない!

 静かな怒りに震えていると、当のシャルロットは待ちきれなくなったのか、立ち上がり冷蔵庫をのぞきこんで呆れながら呟く。

「貧弱な冷蔵庫ですね。せめてシリアルとミルクにゆで卵、あとオレンジジュースぐらいは用意してください。できればヨーグルトとフルーツも」

 勝手に他人の家の冷蔵庫を開けたり、中身に文句を言ったり、ちょっと非常識だ。そもそも許可なく部屋に上がり込んできたし。

 やはり、ネグレクトか。食事も与えられず、躾もされず……なのか。身だしなみはきちんとしているけど。あと、口も達者だけど。

 シャルロットのお腹が可愛らしく「キュルルルゥ」と鳴る。一瞬の沈黙。空気が固まった。

 シャルロットが顔を赤くして傲慢にねだる。

「早くなんとかしてください!」


 五分後、二人でカップラーメンをすすっていると、シャルロットが三度目のため息をついた。

「こんな食生活では先が思いやられますね。使い魔には健康でいてもらわないと。これからいろいろと忙しくなるのに」

 箸から麺がずるりと落ちて、塩ラーメンの汁がぽちゃんと俺の頬に飛ぶ。

「つ……つかいま?」

「魔法使いの下僕のことです」

「げぼ……」

 幼い美少女の口から出る単語としては、やや物騒だ。だが、シャルロットは愛らしくニッコリと微笑む。

「はい。あなたにはシャルの使い魔、下僕として役に立っていただかなくては」

「……はい?」

 俺が使い魔? 下僕? それに魔法使いってどういうこと?

 シャルロットはカップラーメンの汁を飲み干してから、ふぅと満足気に息をついて告げる。

「昨日、契約を交わしました。魔法使いとの契約は絶対です」

「魔法使い?」

「はい。マミーはあなたに契約の言葉をかけ、あなたはそれに応えました」

「応えたって……」

 使い魔や下僕になった覚えはない。

「マミーの美貌に呆けていて、気づかなかったかもしれませんが」

「契約……だと?」

 食べ終えたカップラーメンの容器をわきにどけ、シャルロットは背筋を伸ばす。

「はい、そうです。シャルは魔法使い見習いとして、これから銀のリボンを三つ集めなければなりません。そのサポートをするのが使い魔であるあなたの役目です」

 いろいろと突っ込みたいことはある。

 なんで俺が銀のリボンを集める手伝いを?

 っていうか銀のリボンってなんなの。

「なんで俺がキミの使い魔、下僕にならなくてはいけないんだ? 契約ってなんだ? そんなのした覚えはないぞ」

「覚えがなくとも、契約したのは事実です。あなたはマミーの契約に応えました」

 シャルロットはコホンと大人ぶって咳ばらいをする。

「シャルの力になってと言ったマミーに、もちろんと言いました。お忘れですか?」

 ――あ、はい。なにかあったらいつでも声をかけてください。

 ――そう言っていただけて助かります。ぜひ、娘の力になってください。

 ――もちろんです。

「それって、よくある社交辞令だろ!」

 ELLE美女との会話が蘇る。確かに彼女の要望に応えた。

 っていうか、魔法使いとか使い魔とか、なんだそりゃ。もしかして、危ない宗教の勧誘?

 シャルロットが優雅に微笑んで、きっぱりと否定する。

「いいえ。マミーの言葉は魔術を乗せた言葉、すなわち呪文です」

 なん……だと?

「それに優一はドラジェを口にしたでしょう?」

「ああ」

 確かにドラジェを口にした。まさか、あの中になにか怪しげなものが入っていたとか?

 というかいきなり呼び捨てにされた。俺、年上なのに。

 あれか。ファーストネームで呼び合う習慣のある国だからか?

 まさか、下僕だから……か?

 俺の動揺をまったく意に介さず、シャルロットは続ける。

「ということは、銀のリボンに手をかけたんですね。あのリボンには呪文が書いてありました。魔法使いの言葉、ウェールズ語です」

「う、うえーるず?」

 何語かわからなかったあの文字のことか。

 困惑する俺に、シャルロットが最後通告のように告げる。

「マミーは力の強い魔法使いです。契約に反すれば、恐ろしいことが降りかかりますよ」

「え……」

「女の恨みを買うと怖いと、よく言うではないですか。魔女の恨みはもっと怖いですよ」

 確かにそれは怖そうだ。でも、からかわれているのかな? それとも子どもの妄想? あるいは空想?

 シャルロットが意気揚々と立ち上がる。

「では、さっそく行きましょう。銀のリボンが掲げられている場所はだいたい目星をつけてあります」

「え、今から?」

 疑問を口にする俺を無視して、シャルロットは食べたカップラーメンの容器を手に取って水道水で軽く洗ってごみ箱に捨てた。その辺りはとても躾が行き届いている。

「さ、行きますよ」

 シャルロットが俺の手を取った。

 その温かさと柔らかさに妹を思い出してちょっぴり感傷に浸っていると、いつの間にかアパートから引きずり出されていた。