【第二章 『とある魔術の禁書目録』御坂美琴はなぜ短パンを穿いているのか ~つくる(創作術)~】

■脇役だって生きている

『人間らしさ』とはいったいなんでしょう?

 僕は「生きているかどうか」だと思います。

 まるで禅問答のようですが、難しく考える必要はありません。

 キャラクターが生き生きと動きまわり、呼吸が感じられるほどリアルに書かれていることが作品にとっては重要です。すくなくとも、そう感じられない作品は陳腐でインスタントな印象を抱かせるでしょう。

 人間はなんのために存在しているか。生きるためです。

 キャラはなんのために存在しているか、生きるためです。

 作品の中でもキャラクターたちは、寝て、起きて、ご飯を食べて、学校に通って、勉強して、友だちと会話をして、笑って、泣いて、怒って、喜んで、落ち込んで、それぞれのもつ目標や夢を追いかけながら日々を送っています。彼らにスポットが当たっていないとき(本文で描かれていないとき)も、それは同じです。メインキャラか、敵キャラか、モブキャラかどうかも関係ありません。

 さきほどの、キャラに「なんで?」をたくさん投げかけるというアプローチと似ているのですが、生きているように描くためには『夢』や『目的』、『感情のつながり』といったものを意識します。『夢』や『目的』はなんでもかまいません。敵キャラなら『主人公の泣き叫ぶ顔を見ることが俺の生き甲斐』とか、モブキャラなら『この村の門番として一生を過ごす』とか、『女の子たちを集めたハーレム部を発足させたい』といったものでOKです。『感情のつながり』なら、他のメイン級のキャラに対して喜怒哀楽どんな感情を持って接しているかを考えます。

 それらが決まっていないキャラからは、血の通った生命力を感じられず、キャラ自身も薄っぺらいままになってしまいがちです。スポットが当たらない脇役や、少ししか登場しないキャラにも手を抜いてはいけません。彼らにもしっかり生きている描写(夢や目的、感情のつながり)を盛り込みます。

 ちなみに敵役には、ギャップの二面性を必ずしも持たせる必要はありません。敵だからこそ、思い切ったキャラ設定『とことんまで悪』『読者に嫌悪感しか抱かせない』『主人公を全否定する』などの要素で勝負するのもひとつです。なぜなら、全体的に見ればむしろそれは『色んな考え方の人がいる』ことの表れになるため、人間の多様性を描く効果を生むはずだからです。

 主人公やヒロインに人間らしさをしっかりと盛り込むことは必須ですが、敵役や脇役にも、その人間らしさが盛り込まれていれば、さらにリアリティを感じさせる作品となるでしょう。

 スカートの中がパンツか短パンのどちらかで紛糾した御坂美琴はその好例で、当初(『禁書目録』第一巻)はほんの数ページしか登場していなかったにもかかわらず、そのシーンがとても『生きていた』からこそ人気に火が付きました。

 ほかにも、『シャナ』のヘカテー、『俺の妹』の新垣あやせ、『アクセル・ワールド』のアッシュ・ローラー、『禁書目録』の一方通行(アクセラレータ)などなど、類例はたくさん存在します。

 当初は『シャナ』のサブキャラでしかなかった吉田一美に当てはめてみます。『夢』『やりがい』は坂井悠二と恋人同士になりたい。『感情の繋がり』は、悠二に対しては好意。シャナに対してはライバル心、です。これらの設定は一巻ではそこまで活かされていません。あくまで、一巻のエピローグで悠二にお弁当をつくってきてあげる、という行動をとるだけの少女でした。それによってシャナに『嫉妬』の片鱗を感じさせるというのが目的のシーンでしたが、本編で描かれない吉田の『夢』『やりがい』『感情の繋がり』もあらかじめ決めておくのです。それらが裏設定(紙面上では知ることのできない設定)としてしっかりできていたため、『シャナ』第二巻では、吉田が悠二を御崎アトリウムアーチでのデートに誘うというイベントを主軸にストーリーを展開することができました。

 これが悠二への恋に一途ではない吉田一美だったりすると問題です。そんなキャラは再登場したときに「このキャラ、前と今でなんか性格が変わってるなぁ……」と読者に思われてしまいます。凶悪な敵のはずがなぜか上条に優しい一方通行(アクセラレータ)だったり、桐乃のことが心配のはずなのになぜか自分のことばかり主張するあやせだったりすると、『とってつけた敵役』になってしまい、薄っぺらさばかりが際立ちます。

 メインキャラクターだけじゃない。それに関わる敵キャラ、脇役だって生きている。

 そんな想いが作品を面白くすると僕は思っています。