【第一章 読者に媚びない作品は格好悪い  ~たくらむ(企画術)~】

■『ソードアート・オンライン』はゲームを愛する全ての読者に捧ぐ

『ソードアート・オンライン』(以下、『SAO』)、この作品の成り立ちは、作家・川原礫さんのネットゲーム(家庭用ゲーム機ではなく、PCでプレイするゲームのこと。略してネトゲ)の様々な想い出がきっかけとなっています。そのことには、川原さんといつもの作品打ち合わせをしているときの、ふとした雑談の中で気づきました。

「この間、知り合いの結婚式に行ってきたんですよ」

 川原さんのお話を聞くに、そのカップルは、そもそもはネトゲで知り合い、ネトゲ上で『結婚』していたお二人でした。今回、晴れてリアルでも結ばれたというわけです。

「二人は『ウルティマオンライン(UO)』という大規模オンラインRPG上で結婚していたんです。ゲーム自体はとても面白くて、私もつい最近までプレイしていました。でも、大変な目にも遭うこともあって……PK(プレイヤーキル:プレイヤー同士で殺し合うこと)だけじゃなくて、時には住んでいる家も奪われるんですよ。大切に貯めていたお金で購入した家も、うっかりしていると『鍵』を奪われて一瞬で乗っ取られるんです。昔のネトゲというのは、今よりもずっとシビアだったんですよね」

 川原さんはかなりのネトゲプレイヤーで、様々なネトゲの「あるある」話や、実際に体験した、あるいは見聞きした話をしてくれました。それらのエピソードは、SAOの売りであるネットゲームリアリティの一部としてしっかりと採用されています。

『SAO』という作品を書くにあたっての川原さんの性癖は、言うなれば『ネトゲがたまらなく大好き!』、ということになるでしょう。

 川原さんは、『SAO』を、特定の誰かに向けて書いていました。その誰かとは、『(ネトゲを含む)ゲームを愛しているみんな』です。ネトゲについて語る川原さんは、それはそれは嬉しそうでした。プレイ中に酷い目に遭うことも含めてゲームを愛し、楽しんでいるのです。

『SAO』はゲームの中に入って抜け出せなくなり、プレイヤーの死は現実の死と直結するという設定です。一見、ゲームの悲惨さや理不尽さ、巻き込まれた人間の辛さや大変さを描いていると見られがちですが(実際そういう評価、感想もありますが)、僕はそうは思っていません。『SAO』の根底にあるのは、『ゲームは本来楽しいもの』という極めてポジティブな考え方です。

 作品を読めば、ゲームをプレイもしくは運営中に悪用する人間のやり方に過ちがあっただけで、ゲーム自体に罪はないということが分かります。だからこそ『SAO』の主人公であるキリトは、過酷なデスゲームの舞台となった巨大城アインクラッドを愛しているし、キリトを含め一万人ものプレイヤーをそこに閉じ込めた張本人である茅場晶彦すらも悪者とは考えていません。茅場は確かに非道な状況を創り上げた元凶なのですが、キリトは彼の『VRMMOというゲームを愛する心』に同属性を感じているからです(一方で、ゲームをただの『悪用手段』として考えている須郷伸之は憎んでいます)。

 そんな『ネトゲやゲームを愛しているみんな』という『想定読者』への想いが込められていた作品だからこそ、『SAO』は多くの人に支持されたのではないかと考えています。

 もし、その『想定読者』を異なって捉えていたら、どうなっていたでしょうか。 

 たとえば『想定読者』が『学園ラブコメが好きな男子読者』なのにもかかわらず、『いま、男性アイドルものアニメが流行っているので、クラスの男子生徒の中に、踊りが上手いイケメンを入れてみよう』と設定に盛り込んだとします。果たしてこれにどれだけの意味があるでしょうか? おそらく、誰に向けて書かれたのかわからない中途半端な作品が出来上がってしまうと思います。

『SAO』でたとえるなら、今と真逆の想定読者――『ゲームを嫌いな読者』を想定していたようなものです。その世界では、キリトはゲームの悪影響を説くようになり、ゲームを規制する大人の団体のサポートを受けて、最終的に悪のゲーム自体を滅ぼすというストーリーになったでしょう。しかし仮にそんな『SAO』があったとして、読みたいと思うでしょうか? ゲームを否定する『大人』の尖兵のようなキリトは、ゲームシステムを超える力を信じているキリトに比べて、僕達をドキドキワクワクさせる夢を与えてくれるとは思えません。すくなくとも、そんな世界に登場するキリトは、カッコ良くないはずです。